Member 15 下田 元毅

 

1)小説家と夢

 

>建築に目覚めたのはいつですか?

 

 下田元毅(以下下田)—むしろ、無意識的に建築家になりたくないと思っていたかもしれません。父親が設計事務所を主宰していましたから。

 

>なぜ、なりたくないと?

 

 下田—なかなか食べれないのでw。というよりも、子供頃は明確な目標があって、ずっと小説家になりたいと思っていました。小学生高学年ぐらいの時に、祖父に中原中也の「汚れちまった悲しみに」という詩を教えてもらい、衝撃を受けました。悲しみって汚れるんだと。もともと本は好きで、良く読んでいましたが、それ以来小説家や文学に興味が湧きました。

 

小説家の夢を失って、ぼんやりと過ごしていた高校一年生の終わりに、たまたま、武蔵美の油科を出た美術の先生がいて、少し褒められたことから、一転美術という選択肢が芽生えました。中学生の頃から吉本ばななをとか読んでいて、日芸つまり日本大学の芸術学部の存在を知っていたので、その先生にぶつけてみたところ、チャレンジしてみたらとなりました。

 そこで、受験勉強がデッサンだからアトリエに通いたいと親に相談したところ、父親から反対されました。美大は音大のようのもので、三歳からピアノをやっていたりするような才能がある人がいくところだと。努力だけでどうこうなる世界とは違うと諭されました。でも、小説家の夢を失って、ようやく見つかった目標だったので食い下がると、一度やってみれば分かるからと、アトリエに行かせてくれることになりました。その当時一番大きかったアトリエが立町のYMCAでした。一クラスに60人ほどいました。

 

2)芸大志望と才能

 

>どうでしたか?

 

 下田—ガツンとやられました。A1サイズの石膏デッサンを描いては、壁に張り出され何番という評価が出るのですが、最初の絵は60番でした。びりっけつです。デッサン以外にも、平面構成、つまりグラフィックの課題と立体構成の課題もありました。デッサンがあまりにもひどくて、その後もいくら努力しても50番台から抜け出せませんでした。ところが、立体構成だけは、はじめて作った作品が10番台に入りました。父親が言っていた才能というのはこういうことか〜と実感しました。とっても嬉しかった反面、小説家とかデッサンとか、やはり才能の無いことをいくら努力してもダメだと思い知りました。また当時の日芸は空間デザイン的なコースで、黒川雅之さんが教員としておられました。建築に限定されないところも気に入りました。また、下見を兼ねて日芸の学園祭に行ったのですが、お客さんを迎える気がさらさらなくて、自己陶酔の世界に浸っているところも良かったです。

 

3)学部時代と一番

 

>大芸時代はどうでしたか?

 

 下田—やはり気持ちは日芸にあったので、最初の頃は醒めていました。入学して直ぐに宮本佳明先生が第一工房設計のキャンパスを案内してくれたのですが、全然響かないわけです。一年生の前期はずっと部屋に引きこもっていました。さすがに、人と全く接しなかったので、これは不味いだろうと思ってアルバイトを始めました。近くのレストランでウェイターをしたのですが、そこで知り合った先輩に救われました。

 近畿大学の一つ上の先輩でしたが、・・・

 

>なぜ、狩野研究室に?

 

 下田—実は安藤忠雄先生のアドバイスです。クリスマスイブの日に飲み会にいった帰り、ベロベロに酔っぱらってコンビニに入ったら、安藤忠雄先生がおられました。酔った勢いで声をかけさせて頂いたら、「何年生だ?」「3年生です」「就職先は?」「就活なんかしていません」「どこの大学だ?」「大阪芸大です」「お前は・・・

 

4)修士課程と墓地

5)博士課程と漁村

6)ライフワークと漁村集落展

7)設計活動とエリアアーキテクト

 

>いいですね〜、世界と向き合う独自の物差しを手に入れられて羨ましい。独自のものさしを見出すことが博士過程の修了条件だと私も教わりました。博士を修了後、どのような活動をされてきたのですか?

 

 下田—博士が終わった後に2年間大芸で助手をして、その間に住宅の設計をしました。その後、古民家を改修するプロジェクトのお手伝いをしました。それが広島県佐伯郡湯来町の「古民家satoyama」です。

 結婚を機に横浜から広島に移ってこられた岡真里(広島NPOセンター)さんという主婦の女性が古民家を改修して何かやりたいと言い出したことがことの発端です。・・・

 

全文は当日会場にて配布いたします。

 

「創造的フィールドワーク

 エリアアーキテクトのさらに奥へ」

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