Member 04 石川 誠

 

「ニュートラルな空間、飾らないという挑戦」

1、創成期の村上研とSANAAな学部時代

 

>村上徹研究室の一期生だとおききました。当時はどんな様子だったのですか?

 

石川誠(以後石川)—三年生の時に、村上先生が広島工業大学に戻ってこられることになりました。それまでの広工大の意匠研といえば、水田一征研究室か佐藤洋研究室でしたので、私もどちらかに行くものだと思っていました。配属前から先輩の手伝いをしており、水田ゼミ、佐藤ゼミに出入りしていました。その頃、同級生三人で自主的な勉強会を立ち上げており、気になる建築家を調べては紹介し合ったりしていました。村上ゼミの希望者は多く、もの凄い倍率でした。ゼミ配属の試験は今までの課題審査(大学以前の美術作品等もOK)とA4用紙を一枚渡されて、「知っている建築家について書け」というものでした。用紙一杯にびっしり書きました。中にはそういう名前の建築家いるかもしれないけど・・・ってのもあったと思いますが・・・村上ゼミに入ることが出来ました。

 

>その後、毎週住宅を作る会 広島支部も立ち上げられたと伺いました。それはどのような経緯だったのですか?

 

石川— 三年生の夏休みにオープンデスクに行こうと思い、妹島事務所を希望していました。ところが、当時の妹島事務所は、年間200人くらいのオープンデスク生が出入りして、待てども暮せどもアプライがありません。あるとき、村上先生の事務所に行ったら、妹島さん本人がいらっしゃって・・村上先生にお願いして、妹島さんに「オープンデスクを希望しているのですが・・・」とお話ししたところ、早速スタッフさんから連絡がありましたw。

 

>蛇の道は蛇w。200人の内の1人になることが出来た訳ですね。

 

石川— はい、有り難いことにw。当時の妹島事務所は、SANAAを立ち上げたばかりで、面白いプロジェクトが動いていました。妹島事務所のスタッフが複合施設に取り組んでいる隣では、西沢立衛さん達がウィークエンドハウスをやっていたりと、活気に溢れていました。そんな中、ものすごいスピードでCAD図面を描いている小太りのスタッフの方と出会います。

 

2、毎週住宅を作る会広島支部、誕生秘話!

 

>お!まさかそれは菊池ちゃんですか?

 

石川— そうです、菊池宏さんです。最初の出会いは、菊池さんが担当していたプロジェクトの模型をつくることになったことがきっかけです。東京に出てきて、最初はウィークリーマンションを借りていたのですが、念願の妹島事務所だし、帰りたくはなったので、よく終電を逃したと言って事務所に泊まり込んでいました。特に作業がないのに最後まで残っては、菊池さんのデスクの周りに陣取っていましたw。菊池さんも気さくにに話しかけてくれました。

 

>菊池さんとどのような会話をしたのですか?

 

石川− 「好きな建築は?」と聞かれて、確か、メタボリズム全盛期に建てられた古い作品ばかりを答えていた記憶があります。というのも、村上ゼミの学生は、建築雑誌を読み過ぎていて、普通の学生は知らないだろうという古くてマニアックな作品を答えることが当時流行っていましたw。菊池さんも関心があることを色々と話してくれました。「これとこれは、トポロジー的には同じなんだよね~」と位相幾何学の話しをしてくれました。相槌は打っているものの説明を聞いても意味がよく分からなかったですw。また、「手を動かさないと面白くないでしょう」といった話もよくしていました。「毎週住宅をつくる会(しゅうまい)」の話しを聞いたのもその時です。

 

>しゅうまいの話を聞いてどう思いました?

 

石川— 衝撃を受けました。広工大の先輩達は、当時ルイス・カーンや安藤忠雄論をよく語っていて、壁がどうしたとか、かなり抽象的なことを議論していました。その影響で、哲学書を無理矢理読んだりもしましたw。 >確かに、90年代までは哲学書を読まないと設計ができない雰囲気がありましたね。石川− ある時、「しゅうまい」の作品を見せてもらう機会がありました。長いスロープが東西に伸びたプランの作品が目に留まったので、「なぜこういう提案をしたのですか?」と聞くと、菊池さんは、「ただ、陰を伸ばしたくて」といった説明をする訳です。「できるだけ影をびゅーんと伸ばしたかったんだよね〜」と。説明はそれだけ。カルチャーショックでした。

 

>CADやインターネットの普及が建築をよりフラットにしましたね。

 

石川− 「しゅうまい」の話をきいた日は興奮して、翌朝までに100個ほど「しゅうまい」のテーマを書き出しました。早速広島に帰って、その当時はインターネットを自由に使えるところがそうなくて、大学の図書館にこもって、HPにUPされていた「しゅうまい」東京本部の作品を全てプリントアウトしました。

 

>シューマイ広島支部の仲間は集まりましたか?

 

石川− 一年生の頃から仲が良かった同期の高橋将章君をまずは誘いました。彼は、大学院では筑波大の鵜沢研に進学し、一年間イタリアに留学、佐藤光彦事務所を経て東京で独立して、設計事務所をやっています。今でも一番よく語り合う仲間です。ただ、ゼミ活動の一環としてシューマイをやることは避けました。そうなると、好きなことが自由に言えなくなうのではと思って、村上先生には隠れてやっていましたw。

 

>確かに、この手の自主練は、メンバーに温度差があったり、義務感で参加したりすると面白くないですからね。

 

石川− 同級生や後輩達に声をかけました。また、毎週自分たちで決めたテーマ(お題)に対して、A4用紙一枚と模型に提案内容をまとめて持ちよるという「しゅうまい」の基本ルールは継承したのですが、「一等だけを決めよう!」という広島支部のオリジナルルールも加えてやっていました。そうなると、後輩達が持ってきた作品が一等を掻っ攫ってしまう時もありました。彼らも自信がついて、積極的に参加するようになりました。表現力を身につけようとして、次第にグラフィック系の雑誌を見る機会が増えていきました。

 

>では、シューマイ広島支部は順風満帆だったのですね?

 

石川− 先輩達からは、「建築をはき違えている。」「プレゼン能力だけ鍛えても意味がない。」とよく批判を受けました。当時は、その意味するところが何なのかよく分かっていなかったのですが、表現力だけに終始しないようにしょうと意識はしました。菊池さんの「影のエピード」に集約されるように、これまで建築のコンセプトとして扱ってこなかった新しいアプローチを発見したり、生み出したりすることが面白いと思っていたので、どちらかというと設計手法の方に重きをおいて、新しい建築を生み出す仕組みを提案しようとしていました。特に、後輩達にシューマイの魅力を理解してもらうために、設計はこうあるべきだという既成概念からどうすれば距離を置くことができるかをいつも考えていました。また、毎週なので、当然、量をこなすことになります。表現力は身につきました。自然な流れで学生コンペにも出すようにもなりました。

 

3、山あり谷ありコンペ三昧な院生時代!?

 

>当時、コンペキラーの異名をお持ちだったとか。実際のところどうだったのですか?

 

石川− 学部生の時はコンペに引っかかることはありませんでした。メンバーの高橋君は一度全国コンペに入賞していましたが。この頃、建築家の中山英之さんに出会いました。当時中山さんはエス・バイ・エル住宅設計コンペに入賞されて、我々の周りでは一躍時の人になっていました。あるとき、中山さんのHPの掲示板に「中国地方をまわりたいのだけど誰か一緒にいかないか」と書かれていたので、高橋君と興奮して名乗りを上げました。幸運にも実際に一緒に廻ることになりました。卒業設計の発表会の日に中山さんが広島入りすることになり、なぜか打ち上げの席に中山さんも参加して、気が付いたらゼミ室の寝袋で寝ていました。

 

>中山さんとはどんな話をされたのですか?

 

石川− サブカルの話が多かったですね。圧倒的な知識量をもっておられ、話がとにかく面白かったです。また、家具の話もよくして頂きました。その流れで「家具シューマイ」をやろう!という話にもなり、実際に何度かやり取りもしたのですが、中山さんの解説がマニアック過ぎてついて行けずw、残念ながら長続きしませんでした。「家具シューマイ」は幻となりましたが、その後も中山さんとの交流は続きました。大学院時代、コンペの受賞式やオープンデスクで東京に行った際は再会していました。

 

>卒業設計ではどのようなテーマで取り組まれたのですか?

 

石川− タイトルはCOE(Circulation Of Environment)で、環境の循環をテーマにしました。漠然と環境という言葉をテーマに入れたいと考えていました。また、建築単体ではなく街をサーキュレーションさせる仕組みを提案したいと考えていました。具体的には、幟町周辺を敷地とし小規模な店舗、シアター、ギャラリー等を点在させオセロの様に挟まれた環境が循環されていかないかなぁ・・・という計画です。建築の提案もしているのですが主題は環境の循環だったので全てをフラットに表現したいと考え、従来の模型写真があってイメージパースがあってではなく。方眼状の図面を用いて、全てを単線で単調に描きました。動きが表現しやすい断面図を大きく扱い色々な物が動き、循環していくダイアグラムを表記しました。模型写真も撮ったのですが、そのまま使用せずにトレースして線描画にしています。また、実測調査の図面のように補足事項や言いたいことは赤字で図面の周りに書き込みました。大学院に入って建築士会のコンペ(i-kenchiku@余白:審査委員長 横河健)で、同じ敷地で、ファサード部分に足場のようなものを既存の雑居ビルにデザインし、看板ではなく利用者のふるまいで内部空間の機能や性質が街に漏れ出てくる計画を提案し、プレゼンが下品と酷評されましたが・・・環境の循環を評価され入選しました。修士設計は、タイトルはMOE(Media Of Environment)で、環境の媒体として生まれ故郷(高知県)の商店街を敷地に店舗付住宅を点在させてブリッジで繋ぐ計画をしました。モノの流れが少ない地方都市だからオセロのようにはいかないだろうなぁ・・・循環の前に媒体がいるよなぁという感じです。

 

>最初に入賞したコンペって覚えておられますか?

 

石川− 大学院一年生の時にタキロン国際デザインコンペに入賞しました。「自然の中の家」というテーマで隈研吾さんが審査委員長でした。大学院では、五三会(広島工業大学同窓会主催)のコンペと4つのコンペ(国際、全国規模)に応募しました。応募したコンペは何らかの賞を頂きました。

 

>間違いなくコンペキラーですよ!修士二年もコンペ三昧だったのですか?

 

石川− 修士の二年生になって、佐藤光彦さんの事務所にオープンデスクに行きました。現場に行くことが多く、掃除したり、時には事務所から現場まで3×6版を電車で運ぶと行ったミッションもあったりして、貴重な体験をさせてもらいました。素材の扱い、作られ方、空間を肌で感じられて、当時雑誌で見ていた世界はこういう感じなんだぁと色々と考えさせられました。それからしばらくは筑波の高橋君のところに転がり込んで、のんびりしていました。

 

 

>ほう!そんなことが、意外ですね。それでそれで?

 

石川− のんびりしているころに広島の後輩から電話があって、おもしろそうなコンペやっているんですがそろそろ帰って来ませんか?って。島根県の安来市主催で住宅実施設計コンペでした。学生コンペなのですが、受賞作品は実際に住宅が建つことになるコンペでした。対象敷地が3つありました。高橋君とまさにシューマイの集大成として相応しいという話になり、「今度会う時は表彰式で」を合い言葉に、それぞれ広工大チームと筑波大チームを率いてコンペに取り組むことになりました。広工大に戻ると、すでに後輩が、他学科で、まちづくり系の研究室である福田ゼミの学生達と一緒にやろう!とセッティングしていました。村上ゼミのメンバーだけではつまらないと思っていたので、その状況はすんなり受け入れられました。いざミーティングしていると福田ゼミの皆はコミュニティだとか、豊かさだとか、近隣の繋がりだとかを当たり前のように語っていました。それがとても新鮮でした。そのころは、透明性、軽さ、フレキシブルといった言葉をよく使っていて、逆にコミュニティといった言葉は古い感じがしていて・・・。哲学書を読む先輩達から始まり、村上研に入り、妹島事務所ですかっとした菊池宏さんにインスパイアされてシューマイをはじめ、マニアックに圧倒的な知識量をもった中山英之さんの影響を受け、佐藤光彦事務所で建築のドライな感じや軽さに戸惑っていたのですが、福田研の錆びないまちづくりの言葉に救われました。

 

>実施コンペの結果が気になります。どうだったのですか?

 

石川− 市から電話があり、一等を頂くことが出来ました。高橋君に連絡したら、彼らも一等を受賞したと。彼らは隣の敷地でエントリーしていたみたいで、晴れて二組ともそれぞれ一等を受賞し、公約通り表彰式で再会することが出来ました。しかも隣同士で建つことになりました。僕らの 毎週住宅を作る会のフィニッシュです。

 

 

4、宮森洋一郎建築設計室での所員時代

 

>大学院修了後はすぐに就職されたのですか?

 

石川− 宮森洋一郎建築設計室に勤めることになりました。宮森さんの「みくまりの家」は漠然といいな〜と惹かれていました。たまたま所員さんがパタパタッと辞められて席が空いていると聞いたので、年末に面接を受けにいきました。

 

>紆余曲折を経て宮森洋一郎さんに辿り着くところが、なかなか素敵ですね。

 

石川− 私は高知出身で、いつか生まれ育った場所で建築をつくりたいといった想いがあります。ですから、地域や土地に根付いた建築に興味がありました。今から思えば、佐藤さんのオープンデスクで感じた違和感もそういったところに原因があるのかもしれません。村上先生や所員さんからも「なぜ宮森さんなのか?」とよく聞かれました。僕の知らない所でも「あれほど東京って言ってたのに、最終的に広島で小さくまとまって,石川も終わったな〜」と言われてたみたいです・・・。でも、私の中では全く迷いがなくて、素直に宮森さんでした。宮森さんの建築には根っ子が生えている気がするんです!漠然とした抽象的な表現ですがそう答えていました。

 

>宮森さんの事務所には何年おられたのですか?

 

石川− 9年9ヶ月いました。良く聞く所長と喧嘩して独立・・ってのでは無く、大好きなまま辞めましたw。長く勤めた理由も辞めたくなかったからです。所長と交わす言葉の1つ1つが心に響きました。宮森事務所の作品は作家としての思想よりも、施主や工務店が共に幸せになるようにバランスをとると思います。長く側にいて感じるところは、色々な物事への批評が的確というか素直に脳に響く感覚があり、常に感動していました。批評が木の枝を揺するのではなく幹を揺するというか・・・いつまでも話を聞いていたいですね。

 

>宮森さんに関する秘蔵のエピソードってありますか?

 

石川− 就職の面接の際に、ポートフォリオを持参しました。シューマイでつくった作品の1つに、テーマが「窓」で、大小さまざまな気泡を含ませて窓に見立てたゼリー状の作品がありました。その作品を見せた時に、宮森さんが「窓考えるのって面倒くさいよね〜防水とかあるじゃん・・・」的なコメントされましたw。なんとなく建築家の腕のなるところだと思っていたの・・・ってビックリしました。でもこれはきっと怠慢とかそういう意味では無いだろうなぁ・・・思想的な意味だろうなぁとポジティブ変換しました。

 

>宮森さんの所員時代は主にどんな仕事を担当されたのですか?

 

石川− 割と大きな現場がメインでした。住宅は2つぐらいですね。

 

>住宅以外だと何を担当されましたか?

 

石川− 福祉施設が多かったですね。「いしうちの森」などを担当しました。「いしうちの森」は、農作業をするための授産施設なのです。用途上、半屋外空間で野菜を洗ったり、泥だらけの作業だったりと建築としては堅牢さと大らかさが必要でした。仕上げには塗ったり貼ったりは無しのソリッドな素材で構成し、レベル差を設けたほとんどワンルームな空間構成です。僕的には、宮森事務所の名作だと思っています。 「大らかさ」の出来るまでを、この現場では学びました。面接で聞こえてきた「窓考えるのってめんどくせぇ」の意味が分かったというか・・・。学生時代に村上事務所で垣間見た、緊張感のある空間の出来るまでもしびれましたが、大らかな空間が出来るまでもしびれました。

 

>宮森さんとスタッフの関係ってどのような感じなのですか?

 

石川− 「普通はこうだろう!」と強くは言われませんでした。「こうだと思うのだけどな〜・・・」といった言い方をされます。所長が迷うと所員として正直なところ困るのですがw、その代わり、所員も一緒になって深く考える機会を与えてもらったのだと思います。トップダウンではなく言葉のキャッチボールがある・・・というよりも、もっと何かあるじゃないかといった感じで、物事の可能性や本質を絶えず探るスタンスで話されているなといった印象でした。言葉の話で思い出したのですが、感動した言葉が有ります。ある時、松尾芭蕉の『古池や蛙飛び込む水の音』という句の話しになり、宮森さんが「蛙って生物学上ぽちゃんと水に飛び込まないって知っていた?」と話題を振ってこられました。松尾芭蕉が静寂を表すためにデフォルメしたといった話しだったのですが、それをなぞらえて「建築業界も同じだな〜、メディアの中で蛙がぴょんぴょん飛んでいる。実際は蓮の葉っぱからジョブジョブいくしかない」と。共感しました。ピョンピョンが必要なケースもありますが、ジョブジョブを忘れないように心掛けています。

 

5、独立以後

 

>独立されて、最初の仕事は?

 

石川− 袋町公園に隣接した「Ref.」というショップの店舗デザインと友人の住宅「薬師が丘の家」が最初の仕事です。竣工写真にあまり執着しておらず、撮っていませんので、実際に見に行ってもらうのが一番なのですがw。「Ref.」ですが、大きな公園に隣接するビルの1階部分で元駐車場を物販店舗へのリノベーションです。はじめての仕事ということもあり、最初の頃は余計な力の入った提案を持って行っていました。すると、施主が「10年後もそこにいたいか /どうか?」といった評価軸で判断しているのをみてはっとしました。結果、ガラスを嵌めて、あとは何もない伽藍堂にしようという事になりました。クライアントや場から求められていたことは、デザイナーの存在を消すことだなぁと思いました。結果、周辺環境に溶け込んだ楽しいお店になりました。物販だけではなく一部ギャラリースペースのような使い方をされたりしています。環境の媒体となり循環していますよ~。

 

>「薬師が丘の家」はどのような依頼だったのですか?

 

石川− 郊外の高台にある古い住宅地で北西角地の40坪の敷地で、南、東側には住宅が隣接していて北側に果樹園や森がある静かな環境です。「森を見ながら生活朝ごはん食べたい」という要望でした。あと奥さんには、「デザイン重視では無く、普通がいい」と言われました。1階には主寝室と水廻りと屋根付駐車場2台、2階はLDKと子供室です。配置計画としては、南東側に採光を確保する目的と1階主寝室の緩衝ゾーンとしてハーブ畑を設け、2つの長方形が角でくっ付いた様に配置しました。グランドレベルはガレージを大きな軒下空間として閉じつつ開くを意識して壁を配置し開けたパブリックな空間を目指しました。1階は玄関入って水廻り、主寝室の存在を消すように考慮しました。2階は行き止まりの無いグルグル回れる平面構成を意識しました。諸室は室というよりは溜りのような気持ちです。全体の生活の明るさが均質なものがいいと思いました。工事中に職人さんに子供室で「ここはリビングか?」って聞かれ時は嬉しかったですね。カエルの話で言う ぴょんぴょんな提案は無いんですが・・・じょぶじょぶと快適な住宅です。

 

>その他に工夫されたところは,本当にないのですかw?

 

石川− 質朴な設計を心掛けました・・・というか要望でした。他には・・・サッシュは既製品です・・・。オーダーメイドで住宅を設計する際に、何でもかんでも一点ものにすることに対して抵抗感があります。漠然と住宅は大らかな空間がいいと思っていて・・・。ゴリゴリの建築家の思想が生活空間にあふれる事に抵抗があるというか・・・。窓考えるのってめんどくさいです。ってやつです。あと結果オーライですが、施主は「真っ白な家がいい」と言っていたけど、白は白でもよく見たら白かな?ぐらいのグレー寄りの白い家になりました。街にある構造物の中で一番使われているコンクリートの色です。街に馴染むし、空の青や背景の緑を引き立てる背景の色としては抜群だと思いました。結果、デザイナー不在?な建築になったと満足しています。 質実剛健という言葉が有りますが、剛健より質実の方に共感を覚えます。質朴さ・・・を目指していきたいです。やはり、自分が住むのであれば、飾り立てられたものではなく素直で大らかなものがいいなと思っています。デザイナー不在状態の方が実は環境を上手に循環させるし媒体となるのではとも思っています。そうは言っても「どこを設計したの?」「それで設計料もらったの?」と言われそうで、両者の間で絶えず葛藤している毎日ですw。

 

>カタチというもの対してはどのように考えていますか?

 

石川− プロポーションは意識しますが、確かにカタチというものはあまり意識していないかもしれません。逆に「この辺風景が変わった気がするけれど、どこが変わったの?」「ちょっと空が広くなったんじゃない?」的な変化を目指しているところがあります。

 

6、師匠からの贈り物

 

>「薬師が丘の家」はコンテストで受賞されたそうですね。

 

石川− 「薬師が丘の家」は中国電力主催の電化住宅建築作品コンテストで審査員特別賞を頂きました。審査委員には恩師である村上先生と宮森さんがおられました。その授賞式の席で宮森さんから「ニュートラル状態」という審査員評を頂きました。どちらでもない、中立という関係性を意識して設計したので、宮森さんからニュートラルという言葉で評して頂いたことは大変うれしかったです。また、「とにかくあそこまでそっけなく設計者不在でつくれないよな〜」と言われていたそうで、どういうニアンスかは分かりませんが、ポジティブに受け止めていますw。

 

>最後に今後の展望について。

 

石川− 展望では無いかもしれませんが、コックさんのユニフォームとかミリタリー物のようなある種完成されて量産されているものに興味があります。何か「大らかさ」に繋がっていくような気がしています。色々とやりたいことがないというと嘘になりますが、これからもニュートラルな空間から生まれる伸びやかさ、大らかさを意識して、飾らないという挑戦をしていきたいです。

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